武将名鑑【信長の野望 新生】
温井景隆(ぬくいかげたか)
温井景隆(ぬくいかげたか)
温井景隆 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
50 (1332 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
49 (1384 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
63 (744 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
53 (1151 位) | ||||
合計 | 215 (1162 位)2201人中 |
温井景隆 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
父 | 温井続宗 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1533年 | 畠山家臣。続宗の子。祖父・総貞の死後に逐電するが、主君・義綱の追放後に帰参。のち織田家に属す。本能寺の変後、所領回復を狙って挙兵するが敗死した。 | |||||||||
死亡年 | 1582年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
中道 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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治癒 | 自部隊の兵力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 21 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 28 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 38 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 50 |
温井景隆が登場する合戦
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第一次七尾城の戦い [織田信長の北陸平定]
1576年11月17日 ~ 1577年4月12日
石川県七尾市古城町
七尾城跡本丸からの七尾市街と能登島
天正4年(1576年)11月、上杉謙信が能登に侵攻して能登守護畠山氏の居城である七尾城を包囲した。
謙信は、かつて人質(養子扱い)として差し出されていた上条政繁(畠山義春)を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するという大義名分の基に能登攻めを開始していた。畠山氏の当主はわずか5歳の畠山春王丸だったので、老臣筆頭の長続連らが織田信長に通じ、七尾城の兵2,000で徹底抗戦する方針を取った。
長続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く堅城である七尾城は一年にわたって持ちこたえ、支城を攻め落とし七尾城を孤立させていたものの攻めあぐねた謙信は、相模の北条氏に背後を衝かれる恐れがでたため、翌天正5年4月12日に居城の春日山城に帰陣した。
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第二次七尾城の戦い [織田信長の北陸平定]
1577年7月 ~ 9月15日
石川県七尾市古城町
七尾城
天正5年(1577年)4月に能登七尾城から退陣した上杉謙信は、北条軍の侵攻は大規模なものではなかったため領国の仕置を済ませ、閏7月に再度能登に出陣した。
これに対し七尾城主の畠山春王丸を擁する長続連は籠城を決める。
さらに今回、続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせていたので、城内は城兵と領民合わせて15,000人の大人数となっていた。長続連は安土城の織田信長に僧籍にあった息子の長連龍を使者として派遣して援軍を要請した。
信長は了承し8月8日に柴田勝家を総大将とした織田軍を能登に派遣した。上杉謙信は織田軍の援軍を翌日に察知し、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して織田軍の進行を妨害するように求め、自身は石動山に本陣を置き七尾城を攻撃した。
七尾城は堅城なので攻撃を耐えていたが、城内で疫病が発生し、疫病で死ぬ城兵や領民が相次いだ。
当主の畠山春王丸も疫病で死去してしまう。
窮した長続連は小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすよう扇動するも、上杉謙信に鎮圧される。
落城寸前の状況下で、かねてから親謙信派の遊佐続光はとうとう謙信の呼びかけに応じて、温井景隆や三宅長盛兄弟らもこれに結託し内応しようとしていた。
彼らは筆頭老臣で親信長派の長続連を快く思っておらず、9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。この日は中秋の名月の日で、本陣で月見の宴を催していた謙信は「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」という七言絶句、いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。
9月15日、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛兄弟らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。
この反乱により長続連・綱連父子や、綱連の弟の長則直、子の竹松丸と弥九郎らの長一族100余人がことごとく討ち取られた。
長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った長連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。
七尾城は謙信の手中に帰して、能登を完全に支配下に入れた。
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穴水城の戦い [織田信長の北陸平定]
1578年8月14日
石川県鳳珠郡穴水町川島
織田信長に通じた父・長続蓮と兄・長縞を尾城の戦いで殺された宗顓は、還俗して好連(連龍) と名乗り復讐の機会をうかがう。
天正6年(1578年)3月に上杉謙信が卒去したのを好機とみた好連は、8月に信長と結ぶ越中の神保氏張の支援を得て、長氏の歴代の居城であった能登穴水城を攻め穴水城主の温井景隆から奪還を果たす。
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飯山の戦い [織田信長の北陸平定]
1580年3月30日
石川県羽咋市飯山町
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菱脇の戦い [織田信長の北陸平定]
1580年6月9日
石川県羽咋市菱分町
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七尾城の戦い [織田信長の北陸平定]
1581年6月27日
石川県七尾市古城町
天正5年(1577年)9月、遊佐続光と温井景隆・三宅長盛兄弟の内応により七尾城を攻略した上杉謙信は、家臣・鰺坂長実を城代として送り込み、続光らとともに守らせていた。
しかし天正8年(1580年)7月、続光らは七尾城から鰺坂長実を追放し信長に帰順した。
信長から城代として送り込まれた菅屋長頼は未だ上杉と通じる不穏分子を一掃すると、遊佐続光と温井景隆・三宅長盛兄弟らは危機を感じたのか城から逃亡する。
天正9年(1581年)6月27日、遊佐一族は長連龍に捕らえられ処刑され、温井・三宅らは上杉景勝を頼って越後に落ちのび、七尾城には前田利家が入った。
温井景隆が登場する記事一覧
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