武将名鑑【信長の野望 新生】
土井利勝(どいとしかつ)
![武将名鑑アイコン](http://35.77.241.178/img/common/samurai.png)
土井利勝(どいとしかつ)
土井利勝 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
![]() 出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
33 (2014 位) | ||||
武勇
![]() 出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
41 (1745 位) | ||||
知略
![]() 出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
72 (356 位) | ||||
政務
![]() 城の収入に影響する。 |
76 (225 位) | ||||
合計 | 222 (994 位)2201人中 |
![土井利勝のグラフィック画像](https://img.nobunaga-kouryaku.com/img/shinsei/samurai/1429.jpg)
土井利勝 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
幼名 | 松千代 甚三郎 | ||||
法号・戒名 | 宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士 | ||||
父 | 水野信元 | ||||
養父 | 土井利昌(小左衛門正利) | ||||
配偶者・正室 | 松平近清の娘 | ||||
側室1 | 栄福院 | ||||
側室2 | 松花院 | ||||
側室3 | 正寿院 |
![土井利勝の自画像](https://img.nobunaga-kouryaku.com/img/samurai/wiki/1429.jpg)
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1573年 | 徳川家臣。水野信元の子。徳川家康の落胤という説もある。秀忠・家光と将軍2代に仕えて老中・大老などを歴任。江戸幕府の基盤安定に多大な功績を残した。 | |||||||||
死亡年 | 1644年 | ||||||||||
主義
![]() 革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
![]() 武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
地の利 | 合戦で積極的に要所を襲撃 | ||||||||||
作事 | 城下施設の建設速度上昇 | ||||||||||
戦法
![]() 合戦で使える特殊な技。 |
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治癒 | 自部隊の兵力回復 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 |
土井利勝が登場する合戦
-
岡山口の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月7日
大阪府大阪市生野区勝山北・南一帯
徳川秀忠 (36)
前田利常 (22)
本多康俊 (46)
本多康紀 (36)
片桐且元 (59)
井伊直孝 (25)
藤堂高虎 (59)
細川忠興 (52)
黒田長政 (47)
加藤嘉明 (52)
立花宗茂 (48)
土井利勝 (42)
本多正信 (77)
三枝昌貞 (78)
本多忠純 (29)
WIN
大野治房 (43)
LOSE
5月7日、ついに徳川家康は大坂城に総攻撃をかける。
このとき家康は子の秀忠を岡山口の総大将としました。
先鋒は大将を前田利常とし本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢の計7,500と細川忠興隊。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。
一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明が参陣していたといわれる。徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃を開始。
このとき立花宗茂は秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言したが聞き入れられなかった。戦闘が始まると先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手の井伊直孝、藤堂高虎勢が動く。
この陣立ての乱れに乗じた大野勢が秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱となった。そのため秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするが、本多正信は「大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はない」と諫め止めたという。
黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ秀忠は本陣を後退させようとしたが、立花宗茂は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言した。
旗奉行の三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めた。この間、後詰の大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康・秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。
体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却した。
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