武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
大内義隆(おおうちよしたか)
大内義隆(おおうちよしたか)
大内義隆 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
75 (244 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
50 (1334 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
68 (558 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
85 (85 位) | ||||
合計 | 278 (253 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1507年 | 大内家31代当主。7カ国の守護を務め中国・九州に覇を唱えた。養嗣子・晴持の死後は文事に傾倒して独自の文化を築くが、家臣・陶晴賢の謀叛に遭い自害。 | |||||||||
死亡年 | 1551年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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人脈 | 遠国登用に関する具申が可能 | ||||||||||
数寄 | 家宝をまれに入手 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力減少 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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交易主義 | 金銭収入増加 領内行動の集落掌握速度減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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廻船の勧め | 廻船式目が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 40 | 山口館 | ||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 死亡 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 死亡 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 死亡 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 死亡 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 死亡 |
大内義隆が登場する合戦
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銀山城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1524年7月10日
広島県広島市安佐南区祇園町
鏡山城などを奪われた大内義興・義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。 -
勢福寺城の戦い [大内氏の九州進出と少弐氏]
1534年10月30日
佐賀県神埼市神崎町
三津山の戦いで敗北した大内義隆は、陶興房を先陣とした3万余の大軍で出陣し福岡の太宰府に陣を構えた。
これに対し少弐資元・冬尚父子は、当時居城にしていた肥前勢福寺城に籠城し寡兵ながら防御を固めた。
天文3年(1534年)10月30日、大内義隆は少弐氏配下の龍造寺家兼を介して少弐氏に和睦を勧告した。
少弐資元はこれを受け入れ、勢福寺城を明け渡した。 -
第二次桜尾城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1541年4月5日
広島県廿日市市桜尾本町
大永3年(1523年)の第一次桜尾城の戦いで大内氏と和睦した厳島神社神主の友田興藤は、郡山城の戦いに大内義隆が援軍を送った間隙をぬって、天文10年(1541年)正月12日、大内氏を離反し伊予の能島村上氏とともに桜尾城を奪取する。
しかし翌13日には、郡山城の戦いが大内方の勝利で終結したため、15日には大内水軍を率いる黒川隆尚が厳島を奪回。
4月5日には大内義隆の軍勢に桜尾城が攻撃されることとなった。
大内軍は弘中隆兼の援軍もあり桜尾城を攻略した。
厳島神領衆に見限られた友田興藤は火をかけて自刃し、その子の友田広就は安芸五日市で殺されている。
その後桜尾城には大内家臣の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。
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赤穴城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1542年4月 ~ 7月27日
島根県飯石郡飯南町
大内義隆 (35)大内晴持
陶晴賢 (21)杉重矩 (44)内藤興盛 (47)毛利元就 (45)宍戸隆家 (24)平賀隆宗 (17)吉川興経 (34)小早川正平 (19)天野興定 (67)熊谷信直 (35)三吉広高 (-16)杉原理興 (34)多賀山通続 (36)山内隆通 (12)本城常光 (29)益田藤兼 (13)WIN
赤穴光清 (49)LOSE
天文9年(1540年)8月、尼子晴久(詮人)は、毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻略するため出陣したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍もあり敗北してしまった(郡山城の戦い)。
この敗北により、尼子方は多くの将兵を失い、尼子氏に従っていた国人領主らの多くが大内方へ離反した。
天文11年(1542年)正月11日、大内義隆はこの勢いに乗じて、ついに尼子氏を討つため出雲攻めの兵を興す。
義隆は嫡子・大内晴持や陶晴賢・杉重矩・内藤興盛ら直属の1万5000余の軍勢を率いて山口の築山館を出陣する。
安芸国を経由して、安芸国の毛利元就・宍戸隆家・平賀隆宗 ・吉川興経・小早川正平・天野興定・熊谷信直らの軍勢と、備後国の三吉広隆・山名(杉原)理興・多賀山通続・山内隆通らの将兵と合流し、3月には石見国でも本城常光・益田藤兼らの軍勢をも糾合し、総勢4万余の大軍に膨れ上がった。
4月、出雲・石見・ 備後と境を接し、尼子十旗のひとつである赤穴城に攻撃を開始する。
赤穴城は堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させていたため、4万の軍勢の攻撃でも落ちる気配がなかった。
しかし、7月27日、城主の赤穴光清が不運にも流れ矢に当たって討死したため、城兵は光清の妻子の助命を条件として降伏した。
城兵3000余は、尼子氏の本城である出雲富田城に落ちていった。
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第一次月山富田城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内義隆 (36)陶晴賢 (22)杉重矩 (45)内藤興盛 (48)冷泉隆豊 (30)弘中隆兼 (33)大内晴持
毛利元就 (46)小早川正平 (20)益田藤兼 (14)福島源三郎親弘
右田弥四郎
毛利隆元 (20)渡辺通 (32)LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
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大寧寺の変 [大内義興・義隆の興亡]
1551年9月1日
山口県長門市深川湯本
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