武将名鑑【信長の野望 新生(パワーアップキット)】
松平忠輝(まつだいらただてる)
松平忠輝(まつだいらただてる)
松平忠輝 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
63 (696 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
71 (381 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
57 (1109 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
31 (2074 位) | ||||
合計 | 222 (1016 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1592年 | 徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。 | |||||||||
死亡年 | 1683年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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鉄壁 | 所属城の耐久ダメージ減少 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
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練武練兵 | 部隊の能力上昇 金銭収入減少 | ||||||||||
奉行
準備中 |
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徳川伝 | 旗本先手役が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減 |
シナリオ | |||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | 城 | ||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||
1567年8月 | 天下布武 | 未登場 | |||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||
1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 未登場 | |||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 未登場 | |||||||||
1591年10月 | 天下無事ならず | - | |||||||||
1600年7月 | 関ヶ原の戦い | 元服前 | |||||||||
1614年8月 | 大坂の陣 | 23 | 越後高田城 |
松平忠輝が登場する合戦
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道明寺の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府藤井寺市道明寺一帯
二条城に入った徳川家康は、全軍を二手に分けると一手を河内から摂津に向かわせ、もう一手を大和から河内を経て摂津に向かわせました。
大坂城南東に位置する道明寺あたりで合流させようとしたのである。大和ルートの水野勝成・伊達政宗・松平忠輝らは奈良で陣容を整えると、5月5日に3万余の大軍で道明寺に向かいます。
大阪城の堀を埋められ野戦でしか勝機がない豊臣方は、狭隘な道明寺付近で徳川方を迎え撃つことを決め、後藤又兵衛・薄田兼相・真田信繁(幸村)・毛利勝永らは進軍します。
5月6日午前0時、後藤又兵衛指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着しました。
そして幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
しかし真田信繁・毛利勝永らの軍勢が濃霧に阻まれて遅延したため、後藤又兵衛は単独で徳川方の大軍と当たることを余儀なくされる。作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。
徳川軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。午前4時、後藤は松倉重政・奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けました。
奥田は戦死し、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成・堀直寄が来援してかろうじて助かった。小松山を包囲した幕府軍の伊達政宗・松平忠明らは銃撃を加え、小松山にとりつこうとします。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したがそれにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り隊に二手に分け幕府軍に最後の突撃を敢行した。
いくつか敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達政宗の軍勢に銃撃され後藤が被弾。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死し後藤隊も壊滅してしまう。
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し後藤を援護します。
薄田兼相は大坂冬の陣における博労淵砦の戦いで、留守にしている隙に砦を奪われる失態をおかしていたので、その汚名を雪ぐべく奮戦して討死した。
敗北した豊臣方は、西の誉田まで兵を退いていく。 -
誉田の戦い [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府羽曳野市誉田一帯
後隊の真田信繁・毛利勝永の軍勢が道明寺に着陣したのは、5月6日の正午頃で、すでに後藤又兵衛の軍勢は壊滅していた。
後退してきた豊臣方の兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢は豊臣勢の後方を衝こうとしたため、伊達政宗配下の片倉重長は真田勢を見るとこれに攻め寄せます。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃ちました。片倉>自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を800m後方の道明寺辺りまで押し込みます。
しかし伊達政宗の女婿にあたる松平忠輝の加勢を得て伊達勢も持ち直す。真田信繁は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流します。
徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し膠着状態になった。
午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報を受け豊臣勢は退陣します。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。
徳川軍の水野勝成は追撃を主張するも、伊達政宗は兵の疲労を理由に応じなかった。
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