武将名鑑【覇道】
斎藤龍興(さいとうたつおき)
斎藤龍興(さいとうたつおき)
斎藤龍興 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
663 (28 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
671 (19 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
599 (30 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
463 (48 位) | ||||
合計 | 2396 (30 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 4215 | ||||
天賦 | 800 | ||||
b | |||||
s | |||||
c |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 美濃の戦国大名。義龍の嫡男。父の死後家督を継ぐ。美濃三人衆に背かれ、織田信長に敗れて追放された。その後は朝倉家に属し、越前刀禰坂合戦で戦死した。 | ||||||||||
声優(CV) | 島田岳洋 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
范可龍焔 | 対象を含む敵2部隊に武勇200%の攻撃 対象とする敵1部隊に恐慌3%を付与 |
||||||||||
「范可(はんか)」とは中国・唐の時代に止むを得ない事情により父親を殺した人物であり、斎藤義龍は自分の境遇と重ねこの名前を使うようになったとされる。 |
技能
闘志
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 兵力が50%以下の時、部隊の会心威力率+16% |
Ⅱ | 兵力が50%以下の時、部隊の会心威力率+24% |
Ⅲ | 兵力が50%以下の時、部隊の会心威力率+32% |
Ⅳ | 兵力が50%以下の時、部隊の会心威力率+40% |
Ⅴ | 兵力が50%以下の時、部隊の会心威力率+50% |
警戒
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 矢倉に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 矢倉に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 矢倉に任命した場合、任命効果+24% |
強襲
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 自身が大将の場合、自分よりLVの低い敵部隊に対する与ダメージ+8% |
Ⅱ | 自身が大将の場合、自分よりLVの低い敵部隊に対する与ダメージ+11% |
Ⅲ | 自身が大将の場合、自分よりLVの低い敵部隊に対する与ダメージ+15% |
秘伝
恐慌延長の紋
条件 : 繋がった配置の武将と同じ縁が合計2以上
系統 : 戦法
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の武勇+1% 編制した部隊の知略+1% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+1秒 |
Ⅱ | 編制した部隊の武勇+2% 編制した部隊の知略+2% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+2秒 |
Ⅲ | 編制した部隊の武勇+3% 編制した部隊の知略+3% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+3秒 |
Ⅳ | 編制した部隊の武勇+4% 編制した部隊の知略+4% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+4秒 |
Ⅴ | 編制した部隊の武勇+5% 編制した部隊の知略+5% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+5秒 |
斎藤龍興が登場する合戦
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森辺の戦い(もりべのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1561年5月14日
岐阜県安八郡安八町森部
-
十四条の戦い(じゅうしじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1561年5月23日
岐阜県本巣市十四条
-
軽海の戦い(かるみのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1561年5月23日 ~ 24日
岐阜県本巣市軽海
-
新加納の戦い(しんかのうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1563年4月
岐阜県各務原市那加新加納町
永禄4年(1561年)、美濃に侵攻しながらも結局は退陣に追い込まれていた織田信長は、永禄6年(1563年)4月、5700の軍勢を率いて木曽川を渡ると美濃各務原に侵入し、そのまま斎藤龍興の居城である稲葉山城にほど近い新加納に布陣した。
信長が付近の村に火を放ちながら、稲葉山城の城下にあたる井口に向かうと、これに対し稲葉山城から斎藤龍興の軍勢3500が打って出てきて新加納で戦いとなった。
数に勝る信長軍が勝つと思われていたが、龍興の家臣・竹中半兵衛の伏兵策に翻弄され、信長軍は900余が討ち取られ敗北した。
この合戦で活躍した半兵衛に対し、龍興は褒賞するどころか前と相変わらず馬鹿にしたりしたため、翌年2月に自身の留守中に僅か16人で居城の稲葉山城を乗っ取られた。
その半年後城は返されたものの半兵衛は斎藤家を出奔し、斎藤家は衰退していくことになる。
-
関の戦い(せきのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1565年9月29日
岐阜県関市
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河野島の戦い(かわのしまのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1566年8月29日
岐阜県羽鳥郡岐南町
斎藤道三の死によって尾張・美濃の同盟関係が破れると、織田信長は幾度か美濃への侵入を企てた。
永禄9年(1566年)8月29日、信長は美濃国境まで進軍するも、予期せぬ出水に遭遇し木曾川を越えて濃尾国境に位置する河野島まで進軍して境川の南岸に布陣した。
それを知った斎藤龍興も直ちに稲葉山城を打って出て、境川の北岸に着陣した。
斎藤側は、境川を限りとして守備したが、翌30日に木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった。
ようやく水の引いた閏8月8日未明、利がないと判断した信長が木曾川を渡って尾張に撤退しようとしたところを龍興が追撃する。
これにより、織田方の兵が討死や溺死するなどして敗北した。
織田軍は武器を捨てて退散するという有様だったという。
-
稲葉山城の戦い(いなばやまじょうのたたかい) [織田信長の美濃平定]
1567年8月1日 ~ 15日
岐阜県岐阜市大宮町
稲葉山城(岐阜城)
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刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。
斎藤龍興が登場する記事一覧
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