武将名鑑【覇道】
鳥居元忠(とりいもとただ)
鳥居元忠(とりいもとただ)
鳥居元忠 の能力値 | |||||
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統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
366 (90 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
440 (82 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
220 (106 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
81 (120 位) | ||||
合計 | 1107 (106 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 2320 | ||||
天賦 | 550 | ||||
b | |||||
c | |||||
b |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。 | ||||||||||
声優(CV) | 三上殿ノ亮 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
鼓舞 | 自身1部隊の防御、知略を10%上昇 |
技能
兵心
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 兵舎に任命した場合、任命効果+4% |
Ⅱ | 兵舎に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅲ | 兵舎に任命した場合、任命効果+12% |
秘伝
拘束への警戒
条件 : 与力に配置する
系統 : 部隊
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の受けた拘束の効果時間-8% |
Ⅱ | 編制した部隊の受けた拘束の効果時間-11% |
Ⅲ | 編制した部隊の受けた拘束の効果時間-14% |
Ⅳ | 編制した部隊の受けた拘束の効果時間-17% |
Ⅴ | 編制した部隊の受けた拘束の効果時間-20% |
鳥居元忠が登場する合戦
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藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい) [徳川家康の三河平定]
1561年9月13日
愛知県幡豆郡吉良町
永禄4年(1561年)4月、松平元康は東条吉良領を切り取ろうとして、牛窪城や東条城攻めを仕掛け今川氏からの自立を明確にした。
東条城は2ヶ月籠城し容易に陥落しなかったため、元康は津平に松井忠次、小牧に本多広孝、糟塚に小笠原長茲を配置させ砦を築かせた。
しかし室城の城主である吉良家家老の富永忠元は善明堤の戦いで、東条領中島城を奪還する奮戦を見せ、松平側は中島城主の松平好景を失うなど損害を蒙った。
9月13日、松平元康は吉良義昭が守る三河東条城攻めを本多広孝に命じた。
これに対し、吉良義昭は家老の富永忠元に命じて本多勢を三河の藤浪畷で迎え撃たせる。
広孝が先鋒で先駆けし、松井忠次弟の松井光次(次郎兵衛尉)が後詰めで進撃した。
富永忠元はいつもの如く先駆けしたが、単騎で突出して孤立したたため、松平軍が殺到し逃げる忠元を藤波畷まで追いつめた。
松平方の大久保大八郎・鳥居半六郎が追いつき戦いを挑むが忠元に斬られてしまった。
しかし忠元はここで体力が尽きたため、本多広孝の槍の前に突き伏せられ、広孝の家来である本多甚十郎に殺された。
忠元を頼りとしていた義昭は、忠元の死を知り抵抗を諦めて降伏し身柄を岡崎城に移された。
ちなみに吉良氏は、のちに江戸幕府の高家となっている。
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黒駒の戦い(くろこまのたたかい) [天正壬午の乱]
1582年8月12日
山梨県笛吹市御坂町上黒駒一帯
甲斐の若神子に着陣した北条氏直は、ここで徳川家康の軍勢と対峙することになった。
その一方で、家康の背後を衝くため北条氏直は叔父・北条氏忠ら1万余を甲斐東部の郡内に侵入させる。これに対し、徳川方は家康の家臣である鳥居元忠・水野勝成ら3000余が、甲斐黒駒で背後から侵攻してきた別動隊の北条氏忠を迎え撃つ。
劣勢であった徳川勢が北条勢300余を討ち取って勝利をおさめ、 北条氏の優位が揺らぐきっかけとなった。
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上田城の戦い(うえだじょうのたたかい) [天正壬午の乱]
1585年8月2日
長野県上田市二の丸
上田城
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鉢形城の戦い(はちがたじょうのたたかい) [豊臣秀吉の関東平定]
1590年5月19日 ~ 14日
埼玉県大里郡寄居町鉢形
鉢形城 曲輪
5月19日、前田利家・利長父子、上杉景勝・真田昌幸の北国勢と、浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら徳川勢の連合軍は、3万5000余の軍勢で武蔵鉢形城を包囲する。
城主の北条氏邦は、小田原城で籠城している北条氏政の弟であった。
鉢形城は稀に見る頑強な要害であったため、1ヶ月近く籠城を続けたものの、抗戦の不利を悟って降伏開城する。
このとき自刃するため菩提寺正龍寺に入った氏邦は、利家によって一命を助けられ、のち利家とともに金沢に移った。
徳川家康の関東討入にともない、鉢形城は成瀬正一・日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。
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伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい) [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
宇喜多秀家 (28)石田三成 (40)前田玄以 (61)本多正信 (62)鈴木重朝 (39)島津義弘 (65)小早川秀秋 (18)大谷吉継 (41)毛利秀元 (21)吉川広家 (39)小西行長 (41)長宗我部盛親 (25)鍋島勝茂 (20)長束正家 (44)WIN
LOSE
伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
鳥居元忠が登場する記事一覧
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